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新人教育には、主体性の教育が必要性

日本の受け身教育で育った新卒社員なんて、
たいていは自主性がなくて、
ビジネスの常識すらない。

自分が新卒だった頃を思えば当然のような事実。

それなのに、自分が若く幼稚で常識知らずだった頃を忘れて、
若者に対して接する中年以降が、いつの世にもいる。

教えられれば成長する、
社会では当たり前のことすら、
学校生活では不完全な状態だ。

教えられたことができたら優等生、
それが、学生生活だった。

大学院レベルなら、自分で課題探しをしなきゃいけないのだろうけれど、
そこで鍛えられるかどうかで、社会で働ける度合いはほんとに変わる。

何が言いたいかというと、
主体性の教育が必要ということだ。

主体性とは何かと言ったときに、
よく間違えるのが、
「自分で考えろ」ということ。

情報がない状態で、自分で考えて何かができるのなら、
その人は起業して組織に属さないような、主体的な人材だ。

なのに、中年は教育だと勘違いをして、
「自由にやってみろ」、「好きにやってみなさい」、「答えは一つじゃない」
などと言って、意味のない無茶ぶりを若手にさせる。

ゴミくずとしか言いようのない教育だ。

 

組織に属しているのなら、
最低限クリアするべき基準、
そこから伸びてほしいと考える方向性、
程度は示さなければ、本当に自由な思考しかできない。
現実に縛られない自由な思考ほど、意味のない考えはない。

 

思考を現実化して、行動に起こしてこそ、意味がある。
哲学でさえも同じで、哲学をして定めた自分の生き方を全うすることこそに意味があり、
過去の哲学者がこう言っていったらしい、などという「知識」そのものに価値はない。

知識を得て、実践し、他者にまで影響を及ぼすようになれれば、
それは大した行動力だと思う。

 

うつ病とか、考えすぎの病というものも、人間には存在する。
そんな人たちのことを僕は、考えなしに生きるより、生きているように思う。

自分の人生を生きようと頑張ろうとしているけれど、
空回りしてるから、思考がぐるぐる循環して、
「今」に集中できなくなる。

そんなイメージだ。

 

話を戻して、そう、新人教育だ。
新人教育に大切なのは、ルールの範囲を教えることだ。

やってはいけない最低ラインの行動が、組織ごとにあるはずだ。
常識にとらわれているのではなくて、ただ単純に、誰も得をしないような行動がある。

例えば、挨拶をしないことなんて、その典型だ。
挨拶しようよ、円滑な人間関係のために。

挨拶の無視なんて最悪だから。

そういう、対外的コミュニケーションの術では、
「予想外」や、「新しい発想」なんてものは必要ないんだよ。
受け取る「相手」が基準だから。

自然現象と戦ってる物理化学や、万人受けするためのデザインなんかじゃなく、
ただの身近な人とのコミュニケーション。

それくらいは、日本の学校を卒業したての新卒社員には教えてあげなきゃ。

教える時間がないのなら、新卒を雇うのは間違ってるってことだ。
新卒を雇って育てて使えるようにしなければ、
日本の大学卒なんて、ほんと使えない(自戒を込めて)んだから。

新卒でビジネスをわかってるのは、ほんの一握りだけ。

その人材を見抜いて、そんな人材のみを採用したい、
というのが理想だけれど、現実はそんなに簡単じゃない。

現実的プランが大事、ということを、僕は学生時代にわかっていなかったけれど、
今なら言える。

勉強は高い目標を掲げれば環境が整いやすいけれど、
商売は、高い目標だけじゃ、道筋は見えない。

道筋を具体的に考えて、行動できてこそ、価値が生まれるんだ。

 

具体的にどのように行動して、誰がどういった役割を持つか、
考えたとき、
あれ?こんなものか??

と思うだろう。

なぜなら、具体的な「行動」は、なんとなくできそうなことばかりだからだ。
頑張る気があればできるけれど、頑張らなければできない領域が、
個人ごとにある。

そこで、頑張らければできないラインを超える、ということを続ければ、
いつのまにか、他人にはまねできないことになっている。

そういうもんだろう。

中年者は、新人を試すんじゃなくて、
新人を導くよう、自分のふるまいを検討しなければいけないんだよ。

自由と責任はセットだとか、
組織内でわけのわからん理論を振りかざす先輩になっちゃだめだ。

「責任はとるから、このルール内でいろいろやってみろ。確認はする」
と言うのが、本来の先輩であり、上司だろう。

それではまた。