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説明責任はどうすれば果たせるのか

会計の仕事をしていて、
自分の仕事が何の役に立つのだろう?と考えることがある。

有価証券報告書なんて、誰が隅々まで見ようと思うんだろう?
と思いながら作り上げるものだし。

財務諸表とその注記には、ひとつひとつに意味があるけれど、
だからといって、どれだけの人が読み込んでいるんだろう?

 

会社としては、説明責任を果たすための情報を開示している、
ということなんだろう。

説明責任、難しい言葉だ。
説明責任を果たすって、なんなんだろう?

説明を聞いたら、「一般的に」理解できることが、
説明責任を果たした、ということなんだろうな。

誰にでも理解できるように説明することは不可能だから、
「一般的に」という縛りがつく。

赤ちゃんに言葉が通じないように、人には言葉が通じないことがある。

日本語を使えるレベルには個人差があるし、
理解度にも個人差があるから。

定義できない「一般」や「空気」によって、
説明責任が果たされているとか、わからないだとか、言うんだろう。

 

個人同士の論戦ならば、論点Aがつぶれていないから説明するべきだ、とか、
その論点はこの間話したBで説明がついている、だとか、
やりとりはできるけれど。

それを大勢に対してやるのは不可能だし、
与えられた説明で納得できるか、できないか、それだけなんだろうな。

舛添知事の経費問題の質疑応答とか、記者の質問が本当に意味不明だったしな。

経費の使途については調査中だって言ってるのに、同じ質問ばかり。
調査結果はいつ出て、どのように報告するのかを確定させれば、
あの会見で引き出せる情報は終わりだったのに。

2時間程度やっていたのかな?もう記憶が薄いけれど。

調査中のことを説明しろ、と言われても、できるわけがない。
2年前の外食先を思い出せ、と言われて、ぱっと正確に思い出せる人がどれほどいるのか。
しかも、いったん説明したことは、記憶違いでした、と言い直せない状況。

まぁ、そんな状況で会見に挑むなよ、というのはあるけれど、
顔を出して説明する姿勢を見せようとしたんだろう。

 

大勢との関係での説明責任は、民主主義に近いものなんだな。

多数派が納得したら、説明責任が果たされた。
納得しなかったら、説明責任を果たしていないことになる。

マクロとミクロとで違うのは、経済と似ているな。

 

最近、年金の削減法案(内容はよく知らないけれど、ニュースの表題はそうだった)が通ったようだけれど、
ニュースに書かれていたのは、深く議論できていないとかなんとか。

深く議論って、その法案の説明責任を果たしたか、ということでしょう?

で、法案の意義は世代間格差の微縮小ということはわかっていて、
実際、現状と比較して誰が損することになるのか?、ということが示されたんだろう。

で、年金問題じゃ当たり前だけれど、配分の問題だから、
現状と変えることで得する人と損する人がでてくる。

損する人は、法案の内容なんて関係なく、
損するなら嫌だ!となるだろう。

何か別のことが良くなることはなく、単純に損するのだから。
もちろん、説明をちゃんと聞く耳を持つ人もいるだろうけれど、
そんな人ばかりじゃない。

聞く耳を持たない人に、説明責任は果たせない。
だから、多数決で、説明責任が果たされて納得できたかを、
雰囲気で決定するしかない。

これが、マクロの説明責任の正体だな。

 

説明責任とか、責任とか、難しい言葉の定義は、
今後も考えていこう。

とりあえず、マクロの説明責任について考えたから、次はミクロかな?

ミクロは簡単な気がしている。
少数での説明責任は、質疑応答で果たすことができる。
説明できていないと感じるところを、直接聞けばいいのだから。

そこで、説明に反証できず、でも感情的に納得できないことがあれば、
それは、価値観の違い、というところに落ち着いて、
説明責任自体は果たされている。

つまり、意見が合いませんでした、終わり。ということ。

ディベートはマクロとミクロの間の、説明責任の戦いだろうな。
対称の意見に対して、互いに、説明責任をいかに果たすかの勝負。
勝敗は、審判団がする。状態。

互いに納得を目指すのではなく、説明責任の果たせ具合を勝負するもの。

一度やってみたいものだけれど、どこでできるんだろうか。。
今度調べてみよう。

 

では、今夜はおしまい。
おやすみなさい。